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いま、ベトナムが熱い! 遅れて来た新興国

日本のレンズ技術を継承 ハノイ育ち「匠」の素顔

2014年07月01日

中国・アジア

HeadLine 編集長
中野 哲也

 まだ5月上旬というのに、亜熱帯だから最高気温が40度超、湿度は80%以上。額から流れだす汗が止まらない。それでも人々は笑顔を絶やさず、きょうも元気一杯。日が沈むのを待っていた子供たちが、歩道で一斉に遊びはじめる。数え切れないほど点在する路上カフェでは、老若男女が酒を飲みながら大声で議論を続ける。ベトナムの人口は9000万人を突破し、近い将来、日本を追い越す。平均年齢28歳の「遅れて来た新興国」は急成長を遂げ、首都ハノイ(人口約645万人)の街角には活気が満ちあふれていた。いつの間にか忘れていた懐かしさを覚えるのは、高度成長期の東京と重なり合うからだろうか...

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社会主義国家でも...競争原理と自己責任

 ハノイ市内の至る所でクレーン車が作業を続けている。韓国資本の超高層ビルは地上72階建て、さらに65階建てのビルも完成間近である。6年前のリーマン・ショック後にベトナムもバブル崩壊を経験したが、外資が引き続き流れ込んでくるから、立ち直りは早いように見える。

201407_ベトナム_2.jpg ベトナム戦争で米軍を退け、1975年にベトナムは南北に分断されていた国家を統一した。しかし国土は荒廃し、経済は行き詰まった。このため共産党独裁の社会主義国家は1986年にドイモイ(刷新)政策を導入し、市場経済へ大転換した。そして今や、在ハノイの日本外交筋が「日本のほうがよっぽど社会主義に近い」と苦笑するほど、競争原理と自己責任原則が浸透している。

 本来、計画経済が社会主義国家の柱となるはずだが、ハノイの都市開発は「虫食い」状態であり、およそ計画性が感じられない。建設が途中でストップしたままの工事現場も少なくない。地元の日本企業幹部は「固定資産税などがないから、未完成でもコストが負担にならない。急騰した作業員の労賃が下がるのを待っているか、ベトナム共産党の命令で別の工事が優先されたのだろう」と推測する。

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 市街では朝夕、バイクの「洪水」が発生する。急成長を遂げたとはいえ、市民の足は未だ二輪車である。大通りでも信号や横断歩道がほとんどないため、運転者も歩行者も事故を起こさないよう実に巧みに動き回る。筆者は伝統的な笠帽子(ノン)を被ったお年寄りに先導してもらい、ようやく通りを渡ることができた。やがてモータリゼーションの波はこの地にも押し寄せ、バイクにとって代わる自動車の巨大市場が誕生するかもしれない。

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 一方、ハノイの旧市街では時計の針が止まったまま。市場に立ち並ぶ商店には冷蔵庫が普及していない。肉や魚介類は氷で冷やされ、店先で次から次へとさばかれていた。地元の人は「朝売れ残ったものは昼までに捨ててしまい、夕方は改めて新鮮な商品を並べるから、衛生上も問題ない」というが、屋台で勧められた惣菜は遠慮した。

 猛暑で頭の中がクラクラするせいもあり、市場は混沌としているように見える。しかし、改めて観察してみると、同じ食材や衣類、雑貨を扱う商店がエリアごとに集積しており、客への配慮や計画性もうかがわれる。混沌の中でも「秩序」を保っているのは、真面目な国民性か、あるいは社会主義体制の為せる業なのか。

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 幹線鉄道でも一日に何本も走っていないから、たくましい市民は線路端も生活空間として利用する。魚を焼いたり、踏切でおしゃべりを楽しんだり...。路上のあらゆる所に「臨時商店」が突然現れ、そしていつの間にか居なくなる。「よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとどまることなし」-。草の根経済のダイナミズムを体感していると、久し振りに方丈記の一節を思いだした。

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ハノイの中流家庭を訪問 エアコンはなくても...

 ハノイの典型的な中流家庭を取材で訪れた。トアンさん(46)さん、チン(36)さん夫妻は同じ外資の工場に勤めている。この街には間口が狭く、ウナギの寝床のような家が多い。昔は間口に応じで税金を徴収されていたから、その「節税策」の名残りだという。

 玄関に入ると、ピカピカの大型液晶テレビが出迎えてくれた。トアンさんは30歳でテレビを初めて手に入れ、今年に入り42型を約6万円で購入したという。夫妻の合計月収に相当する思い切った買い物だ。小学校5年の長女チャンさん、1年の二女ザンちゃんと米国のアニメを見ることが、夫妻の日課になっている。姉妹はテレビゲームを持っていないが、別に欲しくもないという。手に入れたいものを尋ねると、チャンさんは即座に「携帯電話!」と両親に訴えた。

 エアコンはないが、高い天井と大きな扇風機のおかげで意外なほどしのぎやすい。それでも、トアンさんが次に欲しいものはエアコンだ。ただし、それを聞いていたチンさんが「わたし専用の日本のバイクが欲しいんです」と身を乗りだしてきた。今はバイクが1台しかないため、通勤は夫妻で二人乗りしているからだ。チンさんは「毎日の買い物は近所の公設市場で済ませます。スーパーマーケットは高いから、ほとんど行きません」という賢妻である。

 休日は親戚の家に行くことが多い。夫妻が招く際は、3LDKのこじんまりした自宅に30人もやって来るという。ベトナムでは血縁が非常に強く、お金に困った時も親戚が融通してくれることが少なくない。それだからか、トアンさんに貯金を聞くと、「ありません」―。また、この国では住宅や自動車を買う時も現金払いが一般的であり、ローンやクレジットカードは普及していない。

 別れ際、夫妻に将来の夢を聞いた。「ベトナムは急激に発展したけれども、収入に波があるから早く安定させたい。そして、子供たちを大学まで行かせてあげたい」-。ベトナム人は教育熱心であり、放課後も学校の先生が有料の「塾」を開いて生徒に勉強を教えているという。

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チャイナ・プラスワンの「本命」だが...

 前述したドイモイ政策の導入以降、ベトナム経済は中国に及ばないものの、高度成長を実現した。2008年のリーマン・ショックを乗り越え、近年も5~6%台の成長を維持している。人件費は高騰した中国に比べるとまだ安いため、外資にとっては中国製造拠点を分散する「チャイナ・プラスワン」の対象国として魅力的な存在である。

 ベトナムと日本の通商には長い歴史がある。徳川幕府は鎖国の実施直前まで認めていた朱印船貿易により、日本からベトナムへ大量の銅を輸出していた。これが、今のベトナムの通貨「ドン」の由来である。ドイモイ政策を機に、日本企業は直接投資を積極化させ、日本貿易振興機構(JETRO)ハノイ事務所によるとその累計額は3兆円を突破。進出企業は1800社を数え、在留邦人は1万1000人を超えている。

 川田敦相所長はベトナムへの投資の魅力について、賃金のほかに豊富な労働力とその若さ、潜在的な成長力、「以心伝心」が比較的容易な親日的な国民感情などを挙げ、「チャイナ・プラスワンの本命」と指摘する。ハノイ、ホーチミンの二大都市とその周辺ではコストが上昇しているため、日本を含め外資の熱い視線がベトナムの地方にも向きはじめた。

 ただし、ベトナムの前途が必ずしもバラ色というわけでもない。ベトナムの労働コストも経済発展とともにジリジリと上昇する一方で、近隣のミャンマー、カンボジア、ラオスはより安価な人件費を武器に外国企業の誘致を強化している。来年、ベトナムも加盟する東南アジア諸国連合(ASEAN)が経済共同体を発足させると、競争が一層激しくなるのは必至だ。

 また、ベトナムの基幹産業を牛耳ってきた多数の国有企業は、バブル崩壊後の不良債権処理に苦悩する。そして環太平洋経済連携協定(TPP)交渉では、米国が国有企業を甘やかしてきたベトナム政府に構造改革の断行を突きつけている。さらに、南シナ海の領有権をめぐる中国との緊張関係も予断を許さない。

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 外国からの直接投資を所管する、計画投資省・外国投資庁のクアン副長官にインタビューすると、「現在、過去30年の間で最も良い成長が続いている」と笑顔で答えた。その一方で、「改革政策を徹底的に行い、経済の開放を進めてきた。今後は改革の対象を経済全体に広げ、外国からの投資をもっと促進する」と言うように、当面は外資頼みの成長戦略にならざるを得ない。

 しかしながら、安価な人件費を武器に外資から組み立てを請け負う成長戦略には、限界も見えはじめる。一方、ベトナムはコメやコーヒーなど農産物の輸出大国であり、また民族衣装のアオザイが証明するように立体縫製の技術水準も極めて高い。このため、「やみくもに工業化を目指すのではなく、農業や縫製などの高付加価値化に取り組み、他の新興国と差別化を図るべきではないか」(在ハノイ日本外交筋)という指摘も聞かれる。

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 日本をはじめとする外資の直接投資とともに、ベトナム経済を牽引してきたのが、外国からの政府開発援助(ODA)である。この分野でも日本は最大の援助国であり、国際協力機構(JICA)はハノイに海外拠点では最大級のオフィスを置く。社会主義国とはいえ、ベトナムの貧困率は11%に達している。このため、JICAベトナム事務所は貧困削減や格差是正に向け、上下水道や病院などの整備に取り組んできた。ハノイ市内では国際空港新ターミナルや都市鉄道(写真下)、幹線道路などのインフラ建設も支援している。

 日本の援助対象は多様化しており、必ずしも「ハコモノ」だけではない。無償資金協力でベトナムに導入された日本の税関システム(NACCS)は企業の輸出入業務を画期的に円滑化するほか、JICAはベトナムの行政や産業界の未来を担う人材育成にも力を入れる。森睦也所長は「今のベトナムは1970年代初めの日本の地方に似ている。ODAは日本企業の市場拡大にもつながり、両国はWIN―WINの関係を築くことができる」と話す。


PENTAX工場 従業員1000人の8割が女性

 ベトナム全土でおよそ280の工業団地が稼働しており、外資系メーカーが生産・輸出基地とする。ハノイ市内のサイドンB工業団地もその一つ。PENTAXやRICOHのブランドでカメラ事業を展開しているリコーイメージングは、ベトナム生産子会社(RIMV)をここに置き、PENTAX一眼レフカメラ用交換レンズのほぼ全量を生産している。

 リコーがPENTAXのカメラ・レンズ事業を買収する前、旭光学工業(当時)は1996年にこの工場を完成させ、操業を始めていた。漢字で「河内」と表記されるようにハノイは河川や湖に恵まれているため、研磨や洗浄の工程で大量の水を必要とするレンズ生産に適していたという。

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 RIMVでは約1000人のベトナム人従業員が働き、うち8割近くを女性が占める。RIMVの小林裕一社長に聞くと、「工場の現場というと、男性の熟練工のイメージを持たれやすいが、当社では加工から組み立てまで多くの女性従業員が重要な役割を担い、活躍している」という。現場を取材して歩くと、日本の「匠」の技がベトナムの人々にしっかりと受け継がれていた。

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 組み立て工程のシニアマネジャー、ニュンさん(42)は、300人の部下を率いる働くお母さんである。工業専門学校卒業後、幹部候補の第一期生として採用され、操業開始からの社員である。今では幹部社員の中心的存在となり、ベトナム人従業員と日本人幹部の橋渡し役を務める。「ベトナム人は目標を達すれば『もういいじゃないか』と満足しますが、もっと高いところを目指すよう導くのに苦労します」-。帰宅は毎晩7時すぎになるが、高校生の長男が夕飯を作って待っている。家族でするバドミントンが休日の楽しみだ。

 レンズの研磨後とコーティング後の検査工程では、アシスタントマネジャーのトゥーさん(39)が部下30人を指導していた。高校卒業当時は就職難で仕事を見つけられず、しばらく実家で服飾の作業をした後、1996年に入社した。彼女は目が大変良く、レンズに付着したミクロン単位の微小なゴミを見つけるのが得意だ。試作品や新製品の検査にはとりわけ神経を使い、責任も重くなるが、「ベトナムで生産したPENTAXレンズが世界中に認められることがうれしい」と話す。将来の夢を尋ねると、「ずっとここで仕事を続けて生活を安定させながら、息子と娘を大学まで無事卒業させたい」―

 トゥアンさん(36)はレンズ研磨工程のスーパーバイザー。難易度の高いレンズを担当する「匠」である。細心の注意を払い、緻密な作業を求められる。彼は「ベトナムでは女性のほうがよく働きます」と笑いながら、「日本人は集中力がすごい。一方、最近のベトナムの若者はそれが弱いと感じます」―。帰宅すると、トゥアンさんは娘に算数や国語を教えるという教育パパ。「冷蔵庫やテレビは手に入れたから、次はクルマがほしい。ベトナムの成長スピードがあまりに速いため、どの水準まで到達するのか想像もつかない」という。

 午前の勤務が終わると、工場の全員が社員食堂で会社支給のランチをとる。かつての配給制の名残りから、ベトナムではほとんどの企業で昼食が無料で提供されている。小林社長を含め日本人社員8人も、現地従業員と同じ内容の定食である。

 トゥアン副社長(管理部門統括)はベトナム政府の国費留学生として旧ソ連で学んだ経験もあり、数カ国語を操る国際派。「幹部もワーカーと同じ作業服を着て同じランチをとる。組織の上から下までの距離を短くすることが、日系企業がベトナムで成功を収めている秘訣だろう」と分析している。

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 小林社長は「PENTAX一眼レフカメラ用のレンズは、その付加価値の4割が当工場で生み出されている。今後は日本の技能検定制度と同じように制度を拡充し、ベトナム人従業員の技能をさらに高め、やる気をもっともっと引き出したい」と話す。

 PENTAX一眼レフカメラは、「日本で製品の企画と開発→ベトナム・ハノイでレンズ加工、部品加工、組み立て→フィリピン・セブでカメラ組み立て」という国際分業体制を確立し、製品を世界市場へ送り出している。

 このうちレンズ製造には人間の感性が不可欠なため、自動化やマニュアル化の難しい「モノづくり」といわれる。RIMVでは、日本からその技術を学び取った多くの「匠」が活躍していた。「Made in Japan」が難しい時代になっても、「Made by Japan」の精神はハノイで着実に育まれている

(写真)筆者 PENTAX K-50 使用

中野 哲也

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※この記事は、2014年7月1日に発行されたHeadlineに掲載されたものを、個別に記事として掲載しています。

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